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報道を見るたびに、怒る


もう以前から理性ある方々同様、視野狭く非合理的、近視眼的で不誠実、不正確にして不道徳な言動をした等の権力ある立場の人たちに関する報道に呆れていたけれど、ここ最近その事例の数と規模が大きくなるにつれ呆れは絶望に取って代わり。


視野広く合理的で、長期的見地で誠実に、正確にして高い道徳意識を持ち人の上に立つことができない非常に賢くない人たちが、なぜ権力を手にすることができるかといったらば、徳が低いため本能的で強欲で、不誠実さの面目躍如か責任逃れ、自己保身、強弁の才能に長けるようで、処理できる情報量がわずかであるためすぐ目の前にあることにしか対応できず、また目の前の家族や友人に便宜を図ることが後に与える影響に気付くことすらできない事例は、洋の東西を問わず歴史的にも目新しいものではない。




・・・権力を握るのは見下げ果てた人たちばかりらしい。




というように学ぶ世代の子供たちに認識させ、不道徳は新しい道徳、と思わせてしまったら道徳的規準が緩まりつつある日本は新たなソドムでありゴモラであり、アヘン戦争前の風紀の乱れた清の具体的状況が調べても分からないので益々知りたくなるが、そこは理性ある成人世代の完全なる失敗である。


非常に賢くない人たちによる、非常に賢くない人たちのための、非常に賢くない政治の責任は、しかし、選挙権のある有権者個人の責任でもある。


スポーツ界でも思うがままに圧政を強いる人たちが組織の上位に構える姿が窺い知られ、そのような人が記者会見などをしている映像を見ると、やはり悪辣な人間は悪辣な面立ちをしているなと納得すれば、それは加害者ではなく被害者側の監督であり心の底からお詫びを申し上げたい所存なのであります。拙速なる誤りの一例。ところで性格と心根のゆがみは即座に口のゆがみに反映されるらしく、口がゆがまないよう日々気を付けております。



気分も暗くなったところで、こんなものを見つけました。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.2』ブルーレイ・プロモーションビデオ、デービッド・ハッセルホフ with ガーディアンズ全員出演。



冬季五輪における仏像の哀しみ


開会する前は北から美女軍団がやってくるらしい位しか興味はなかったものの、始まってみればそこに至るまでの過程を想像し、涙を流す勝った選手にもらい泣き、その心の内をを想像し、涙を流す負けた選手にもらい泣き。生中継を見るため夜更かしし、競技日程と放送予定表を確認しつつひっきりなしに放送局を変え、見れないものは録画。テレビ受像機の前から動けない実に多忙な2週間が終わった今、味気なさを感じつつ自分もがんばらねばいかんなとの感じているのであった。

私の冬季五輪最高点は、競走馬の中に小鹿あるいはドーベルマンの中にマルチーズのような髙木菜那選手がマススタート一位でゴールしたあの瞬間でしたが、皆様はいかがでしたでしょうか。羽生結弦選手一位確定時のテレビ視聴率は46.0%らしいけれど、残りの54.0%は一体何をしていたのか。止むに止まれぬ事情のためにその瞬間を見られなかったのかもしれない。例えば奈良に仏像を見に出かけていたのかもしれない。そのための手続きは五輪に美女軍団がやって来る位しか興味がなかった頃に済ませていたのかもしれない。その仏像は穏やかに厳かに立ちつくす如来・菩薩像ではなく、如来・菩薩を警護する設定の闘神群であり衝撃を受けるほどに動的、心を奪われるほどに剛強であったかもしれない。五輪の解説者ならば「鉾のメランコリーグラブがきまってスタイル入ってますね、カッコいいです」と言ったかもしれない。解説は老若男女の初心者向けに分かりやすくお願いしたいと思ったかもしれない。寂しさを感じつつ春日大社で鹿の頭をなでていたら、シカせんべいをせがむ別の鹿に尻を噛まれ悲鳴をあげたのかもしれない。そしてせめて東京五輪期間は忘れずにスケジュールを空けておこう、同じ過ちは繰り返さないようにと思っていたのかもしれない。

羽生選手国民栄誉賞おめでとうございます。








あけましておめでとうございます

2018年賀

水墨的生活とは看板に偽り、これは水墨画ではないのではないかと思われた方、あなたは年明け早々冴えている、冴えまくっているかもわからない。これは水墨画ではなく、色紙を切って貼ったものなのであった。なぜ水墨画でないかともし尋ねられたら、私はこう答えるかもしれない。昨年を通じて色々ありましてすっかり腕が鈍ってしまいましたが、その色々を一つ一つ数え上げるにはあまりに無味乾燥なことばかりで読まれる方も退屈されましょうから、そこは割愛させていただき取り敢えずは

あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願い致します。



シラス一匹、米一粒たりとも無駄にできないということ



野生の猛禽ハヤブサ的な鳥が、ワタシの居住する住宅の屋上を食事処に定めたらしく、捉まえられた鳥の羽やら何やらが屋上から雪のように舞い落ちてくることが本年しばしばある。昨日外から奇声が聞こえ、窓ガラス越しに外を見ると、高速で真っ直ぐこちらに向かって来るハヤブサ的鳥を正面に見て狼狽したところ、上階から羽を散らせながら右方向に逃げるハト、部屋の窓にぶつかる直前に左側に方向転換するハヤブサ的鳥。ハトの逃げた方向を追ったけれど、二羽とも姿を見失いその先のハトの運命は分からず。ハトも災難だけれど、猛禽類も絶滅が危惧されているらしく、食物がなければこの寒い季節まず野生生物は生き延びることはできず、餌付けもできず、みんながんばれとしか言えず。しかし猛禽類の狩りの現場を初めて目にして感動しました。

他生物に食べられる心配の無い人間、特に食物を手に入れるのに命がけになる必要もなくちょいと近くのコンビニに行けば足りる日本人であることに感謝するのであった。

感謝・・・・・・便利過ぎてともすれば忘れがちな感情。そういえば子供の頃、親や幼稚園・学校の先生から「食べるときに作ってくれた人たちに感謝して『いただきます』と言いましょう」と教わった。野菜を作った人、魚を網で引上げた人、加工した人、調理した人に感謝。正しい。正しいことだけれど。

経済的活動は相応の金銭対価をもらった時点で或る程度完結しているのではないかということはさておき、その労力に感謝。だけれど、教わった「いただきます」にもっと大事なものが欠けているのに気付いたのはずっと後になってからなのでした。

「我々が食べるほぼ全てのものは生物・生命である(塩以外は生物自体または生物の生命活動による産生物)」という根本的な事実。そして生命は自分自身が生きるために存在しているのであり、人間に食べられる事を目的に存在しているのではないという事実(一部の寄生虫を除く)。「人は一人で生きているのではない」というけれど、どれだけの生命を犠牲にして今まで生きてきたのか考えると、生命を犠牲にしてくれた生物に感謝してもし尽くせず、浪費した人生について謝っても謝りきれず、せめて腸内細菌だけは大事に育てようと思う年の暮れ。「いただきます」に感謝と謝罪を込めて。



『We Feed the World』:食物はどのように生産されるのか、大量生産が人々の生活や自然環境をいかに変化させたのかを明らかにするドキュメンタリー。



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